とても長い一日だった。
午前中からの戴冠式が終わるとその足で王城二階露台からの姿見式を行い、その後は四公爵による昼餐、王都内の祝賀行進に加え、夜は再び、ファルシオン――新王が催す晩餐、場を移しての歓談。
ようやく場が開けて夜も九刻を過ぎ、廊下を歩くファルシオンの足取りが怪しいことに、レオアリスも周囲も気付いている。
踏み出す足が、右へ少しふらつき、もう一歩出して左へ。
端的に言えば、眠そうだ。とても。
それでも今はまだ、最後のひと行程――四公、十侯爵が新王を居城の扉まで見送り、即位の一日が全て終わる、その行程を残している。
何とか眠気を振り払い歩いている様子は年相応を感じさせて微笑ましく、レオアリスの口元にも笑みが浮かぶ。
(そりゃそうだよなぁ――あともう少し)
居城の扉まで。
心の中で応援しつつ、足取りは粛然と進めながらレオアリスは廊下へ視線を移した。
高い天井は半円を描き、時折十数本の蝋燭が灯りを揺らす燭台が天井から吊るされている。その灯りと壁に等間隔に掲げられた角灯の硝子の中の灯りとが、磨かれた床の大理石に一行の影を淡く映し出していた。会話は無く、響くのは抑えられた靴音だけだ。
正面に近づく王城と居城を区切る両開きの扉は、その向こうの様子を表わすように純白の大理石が貼られている。
その前に至り、一行は歩みを止めた。
ファルシオンが振り返るのに合わせ、レオアリスは少年王の斜め前に、相対する視線を妨げないように控えた。
王母クラウディアと『王太子』を継いだエアリディアルがファルシオンの傍らに立つ。
一行の顔ぶれ――ファルシオンの前に揃うのはこれからファルシオンと国を中心となって支えていく者達だ。
スランザール、北方公ベール、南方公アスタロト、東方公ランゲ、西方公ヴェルナー。
その次に筆頭侯爵家ゴドフリー以下十侯爵が二列になり控え、王家と王城の守護を担う近衛師団の各大隊大将と副将。
王が居城に入るのを見送り、ようやく、ファルシオンの長い、そして国王としてよ始まりの一日が終わる。
ベールが進み出て、粛然と一礼した。
新王を労い、ここで公爵以下は退出する旨を述べる。
「新王陛下――国王陛下の掲げる光が、我等民とこの国を幾久しく照らし、大地に遍く届くことを請い、祈念いたします」
これで、本当に最後の儀礼の言葉だ。
ファルシオンが頬を引き締め、頷く。
「みなの支えが、助けてくれる」
返す言葉の中にも、ほんのりと睡魔が紛れ込んでいる。
ベールは微笑んだ。
もうこの先は即位式の緊張と、新王として保つ威厳から解放されていい。
「明日もまたお忙しくなりましょう。まずは、お身体を憩われますよう」
居城への門を潜ると一瞬目が眩むのは、この廊下の天井も床も壁も、全て純白の大理石を用いている為だ。
王や王太子へ面会する者が、廊下の左右にある控えの間で呼び出しを待つことから、この場所は「控えの廊下」ともそして白一色の景色から「白の廊下」とも呼ばれている。
光を反射させる白は少し眩しく、けれど居城に入ったことでファルシオンは身体全体でゆっくり息を吐いた。
真っ直ぐに続く廊下はとても静かで、その静けさの中に控えていた一団――王の館の侍従官と護衛官等が恭しく膝を落としてファルシオンを迎えている。
まず進み出た、白髪を品良くまとめた六十代前半の婦人が深々とお辞儀したのち、身を起こしてファルシオンを見つめた。
「陛下のお帰りを、一同お待ちし申し上げておりました」
王の館の侍従長――もうハンプトンではない。
彼等の前に立ちながら、まだ幼い黄金の瞳にほんの束の間寂しさを覗かせたファルシオンの、その傍らにレオアリスは一歩引いて控えた。
けれど彼等は先王の時代からの侍従官達であり、ファルシオンが王の館に滞在していた一時期はハンプトン達と共にファルシオンを支えていた。
それをファルシオン自身も良く知っていて、気を張っていた肩から力を抜いて息を吐き、柔らかな頬を綻ばせる。
侍従官達はすぐにファルシオンを先導し、廊下を歩いて行く。二十名の護衛官達が廊下の左右に分かれて立ち、ファルシオンの後に従って動き出すのを待っている。
ファルシオンは一度斜め後ろのレオアリスを見上げ、足を踏み出し――その身体が揺れた。
後ろに立っていたレオアリスの方へ。
「陛下――!」
伸ばした腕がファルシオンの身体を受け止める。
上から覗き込んでファルシオンの面を確認し、思わず詰めた息を吐いた。心臓が飛び跳ねた気がしたが。
小さく呟く。
「……寝てる……」
限界が来たのだ。
ファルシオンは立ったまま目を閉じ、すっかり眠りに入っている。
クラウディアが眠っているファルシオンを見つめ、微笑ましさに頬を緩めた。
「仕方ありませんね、今日だけは――誰か、手を。このまま居城へお連れしてください」
「失礼致します」
レオアリスはそのまま、ファルシオンを腕に抱え上げた。
「閣下、私どもが」
そう言う侍従長へ、レオアリスは笑って目礼を向けた。
「このままで。今日のお召し物も含めて、そこそこ」
重量がありますので、と笑う。おそらく本来の体重の二割ほどは増している。
侍従長は恐縮しつつもレオアリスに抱えられたファルシオンへと笑みを深くして一礼し、再び廊下を歩き始めた。
ファルシオンを抱えたレオアリスが歩き出すと、侍従達や護衛官等も先ほどまでと同様に粛然と、ただほんの少し柔らかな空気を纏って続く。
ファルシオンは王としてこれから、臣下と国民と国を負って立ち、新たな政を敷いていく。その意志と姿を、人々の前に見せ続けなければならない。
けれどこの居城では、もうしばらく、ただ護られる存在であっていい。そんな想いが彼等の上に見えるようだ。
まあ、王が館に入る前に眠ってしまうことや、近衛師団総将が王を抱えて歩くことは、想定外だったかもしれないが。
廊下の反射する蝋燭の灯りがファルシオンの頬を柔らかく染めている。
すっかり眠りに落ちているファルシオンの、伝わるやや高い体温と腕にかかる重みを感じながら、レオアリスは口元をそっと笑みに綻ばせた。
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